またちょっと寝れないので、だらだら書かせてください。
ちょっと前、下関の友人に手紙を出す際、住所を調べるために昔の年賀状とかノートとかが入った埃まみれの「思い出BOX」を数年ぶりにあけました。その中に、小学校のころに書いた読書感想文のノートがありました。
というのも、当時担任だった先生が読書が好きだったようで、一か月に2回ほど、強制で読書感想文と作文を交互に宿題にしていたのです。(正直記憶はあやふや。週一だったっけ?)
本など読まなかった僕にとっては苦痛でしかなく、最初と最後だけ読んで、適当に少しでも長く、少しでもマスを埋めようと知恵を働かせていたのを覚えてます。
そのノートをちょっと読み返してみたら、やはりこれがヒドイヒドイ・・・「面白かった」「すごいと思いました」の一点張り汗こんなものを読まされていた先生はさぞ苦痛だったと思います。
先生にしてみたら「本は素晴らしい!是非本を読む子に育ってほしい!!」という一念から、その様な宿題を課したのでしょう。
その気持ちは、今となっては痛いほどわかります。
本を読むようになって1年ほどたちましたが、数人に本を読むことを勧めたものの、読書を習慣にしてくれた人は一人もいません。
人は「変化」を嫌います。
いままで積み重ねた自分の思考が唯一信用できる。それを、崇拝している人ならともかく、自分と同等、もしくは自分以下と思っている人間に言われたからって、そうやすやすと変化したくないのです。
今いる場所が一番心地いいのでしょう。
大学を卒業後、営業職の仕事につきました。
理由は3つ
①内定をもらった数か月後にリーマンショックが到来。どうせこれ以上内定はとれないと思い就活終了。
②給料が歩合だったので、年収一千万も夢ではないと言われたこと
③仕事は金がすべて。自分なら金さえよければなんだかんだ耐えられる
という、いろいろ勘違いした典型的な学生脳。
といろいろ言い訳を書きましたが、一番の理由は、
さっさと就活辞めたかった。その一点ですね。
結局現実は厳しく、2か月で退職。
この2か月間、一日4回泣きました。朝先輩の運転する車の助手席、昼公園でご飯を食べながら、帰りの上司が運転する車の助手席、そして、帰りの駅から自宅への帰路で。
今思えば、病院に行くべきだったのだろうな、と思うほど病んでいました。
仕事を辞めた後、昔働いていたアルバイトに復帰。出戻りという結構恥ずかしい想いを抱きながらも、数年働きました。
結局その頃には、心の傷はもう塞がっていました。
どうやって?方法は簡単。
僕は自分を諦めました。どうせ俺なんて、、、もうその次元をも超えたような感覚。
姉は誰でも知っている有名企業に就職。内定をもらった時は、親は本当にうれしそうでした。僕の時は、表情一切変えずに・・・
「何のために建築学校いかせたと思ってるの。」
2年ほど前まで、親とはほとんど口をききませんでした。親の作る料理にはほとんど口をつけませんでした。にも関わらず、実家を抜け出せない自分の弱さ。就活する気にもなれない社会不適合者。毎日自分を励ましてくれる先輩の期待に答えられず、最悪のカタチで裏切ってしまった自分。2か月で逃げ出した臆病者。
模型を買ってくる僕に「いつまでも子供のおもちゃばかり買って」と皮肉を言う親に何も言い返せない情けない自分。
もう自分が嫌いで嫌いで。そんな自分に期待してしまうと苦しいだけ。だから自分をあきらめることで、これ以上傷つくことを防いだのです。
2009年の新卒で、結局こんな思いを2014年まで抱き続けて来ました。
本当にムダな5年間でした。
親は仕事に猛反対していました。2か月ひたすらお互いを無視。しかも辞めたものだから、「ほら見なさい!」という空気を前面に出し続ける日々。
終いには、2か月で辞めたのは、親が自分の邪魔をしたからだ!なんて言い訳を自分にしていました。
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そんな自分が変われたのは、というか、変わらなきゃと思ったのは、「資格を取ろう!!」みたいなCMを見て、
「履歴書右側スカスカなのはさすがにマズイかな・・・」そう思い、まあサラリーマンになるために人気のある資格でも取ってみるか・・・と思って、勉強を開始。
漢検準2級(2級まで行く予定が、あまり意味ないという情報を得て辞め)
色彩検定3級(40分勉強しただけで合格。ほぼ運。)
そして、僕の転機(?)になった、
日商簿記検定2級の合格。僕の受けた回は、合格率20%未満だったと後に調べて記憶しています。
「こんな俺でも、やればできるのかな・・・」自分に諦めていた僕に、わずかながら希望の光がさした瞬間でした。
僕は、「
変化」しよう、と
行動に移しました。その結果、自分でも「
変化できる」という実証を手に入れました。
小さな成功の積み重ね。正直履歴書にも書けない漢検だの色彩検定だのも、僕の「変化」のためには、決して無価値ではなかったと、今になって思えるのです。
「変化」するには、確固たる強い意志が必要である、なんて思ってる人多いのではないでしょうか。実際そんなことを書いている本にもいくつか出会いました。
でも僕は必ずしもそうではないと思います。
生きていると、必ず「キッカケ」と思えるものに、毎日のように出会います。資格のCM、歴史のバラエティー番組、街中で見かけたストリートパフォーマー。友達の何気ない話。
そして、その中には、「
トキメキ」というものが稀に入っているのです。
大学4年。就職が決まり、みんなが卒業旅行の話で盛り上がる中、僕は就職までの半年何をしようか悩んでいました。そんな中、家電屋のおもちゃコーナーで、ショーケースの中にはいっているピカピカのエアブラシが目に飛び込んできました。
「そういえば、子供の頃、いつか本格的に模型やりたいって思ってたな・・・」
最後に模型を作ったのは高校生。筆でべた塗の、今思えばヒドイものでした。
運命の出会い?まあそうだったのでしょうが、
でもその出会いを無視するという選択肢が、僕にはちゃんとありました。たぶん99.9%の人は、無視を選ぶでしょう。
でも僕は、その時のトキメキに身を任せ、カードで道具一式5万円を支払いました。(一度家に帰って考えましたが・・・)
当時僕の月給は6万円程度。かなりの大冒険です。
結局この時の出会いがなければ、行動に移していなければ、今僕は何をしていたのでしょうね(笑)
いつか来るであろう人生を変えるキッカケ。それに出会うためには「
行動」をしなければなりません。
そしてその出会いを、無視していては何も変わりません。「感動した・・・これ俺もやってみたい。。。でも時間ないし、金ないし、これで生活してる人ほとんどいないし。。。やっぱり無理だな・・・」
一生その繰り返し。いや、年をとればとるほど、そのスパイラルは強く自分を縛り、気づいた時にはもう手遅れ。
「何かを始めるのに年なんて関係ない!!」
このセリフは半分ウソだと思います。若いうちしかできないこともあるはずです。今から公務員になろうにも、不可能です。
自分を助けてくれた医者になりたい!今から?40過ぎて?サッカー選手にあこがれたって、今から始めてプロになれるか?
明日訪れる「何か」が、もしかしたら人生を変えるキッカケかもしれない。
もしくは、その先にある「トキメキ」に出会うためのキッカケに出会えるかもしれない。
僕は本屋に行くとき、また自分をかえてくれる出会いが、トキメキがあるかもしれない。。。
そんなわくわくを胸に抱いています。
手に取った本。「表紙きれいやな・・・」「すごいいい笑顔やな・・・」「いい紙質やな」「字の大きさなんかいいな」
手に取ったその本から「何か」を感じたら、できる限りその何かに身を任せ、買うようにしています。というか、そんな出会いが、向こうからやってくるのです。目に飛び込んでくるのです。
現金がないならカードで。明日同じ本に出会っても、何も感じなくなってるかもしれない。今日この時だからこそ、これに出会えたんだ。
そんな一期一会を大切に、また本屋に行くとします。
長文シリーズ①「読書」
長文シリーズ②「変化」
長文シリーズ③「国境なき医師団」
長文シリーズ④「幸福な時間」
長文シリーズ⑤「夢」
長文シリーズ⑥「成長」
長文シリーズ⑦「本を読まないあなたへ」長文シリーズ⑧「一番大切なこと」